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アインシュタインの名言

1879年(明治12年)3月14日にドイツ南西部・ウルム市のユダヤ人家庭に生まれたアルベルト・アインシュタイン。

その名言には「空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む」などがあります。

「20世紀最高の物理学者」と称され、ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインの生涯と名言をご紹介します。

アインシュタインの生涯

アインシュタイン

1879年(明治12年)3月14日、アルベルト・アインシュタインは、ドイツ南西部のウルム市のユダヤ人家庭に生まれました。

5歳のときに父に方位磁針をもらったことで自然界の仕組みに興味を持つようになりました。

1895年(明治28年)、16歳でスイスのチューリッヒ工科大学へ入学し、物理学を専攻。

21歳で卒業するも、大学の物理学部長と不仲であったために、大学の助手にはなれず、保険外交員や家庭教師のアルバイトなどをしながら論文の執筆に取り組みました。

1901年(明治34年)、22歳のときにスイス国籍を取得し、翌年にスイス特許庁に就職。物理学に取り組む時間的余裕を得ました。

アインシュタインは24歳で結婚し、3人の子どもを授かりました。

1905年(明治38年)、26歳のアインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」に関連する5つの重要な論文を発表。バス乗車中にベルンの時計台の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られませんでした。

30歳で特許局を辞職すると、その後、チューリッヒ大学、プラハ大学、チューリッヒ工科大学の教授に就任。

1916年(大正5年)、37歳のときに一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれ、後に実証されています。

1922年(大正11年)11月に来日したアインシュタインは43日間滞在し、大正天皇に謁見。日本へ向かう途中にノーベル物理学賞受賞の知らせも受けています。

1932年(昭和7年)、53歳のときに渡米。翌年にヒトラー率いるナチスが政権を獲得し、ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなりました。アインシュタインはドイツに戻ることなく、1940年(昭和15年)にアメリカ国籍を取得。

1945年(昭和20年)、広島・長崎への原子爆弾投下に衝撃を受けたアインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説。

1955年(昭和30年)4月11日、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名。

その一週間後にアインシュタインは死去、76年の生涯を閉じました。

【関連・参考サイト】
アルベルト・アインシュタイン(Wikipedia)

アインシュタインの名言(1)

過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。
大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。
- アインシュタイン -

手段の完璧さと、目的の混乱。
この2つが私達の主な問題に見える。
- アインシュタイン -

宇宙について最も理解しがたいことは、それが理解可能だということである。- アインシュタイン -

人生には、二つの道しかない。
一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。
もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。
- アインシュタイン -

私は、それほど賢くはありません。
ただ、人より長く一つのことと付き合ってきただけなのです。
- アインシュタイン -

愚者と天才の違いといえば、天才には限度があるということだ。- アインシュタイン -

愛は、義務より良い教師である。- アインシュタイン -

正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。- アインシュタイン -

神の前において我々は平等に賢く、平等に愚かである。- アインシュタイン -

神はいつでも公平に機会を与えてくださる。- アインシュタイン -

情報は知識にあらず。- アインシュタイン -

知的な馬鹿は、物事を複雑にする傾向があります。
それとは反対の方向に進むためには、少しの才能と多くの勇気が必要です。
- アインシュタイン -

知識人は問題を解決し、天才は問題を未然に防ぐ。- アインシュタイン -

真実とは、経験という試練に耐え得るもののことである。- アインシュタイン -

宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である。- アインシュタイン -

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